google-site-verification: google29e9fe9537bcd1c0.html 高野山⇔四国、往還の記

2012-10-13

知っておきたい遍路用語

 遍路というものは宗教と切っても切り離せない部分があり、それを表現する際にも、一般には使われないような“特殊な用語”が用いられるケースが多いものです。
 そんな特殊な「遍路用語」のいくつかを、ここで解説。

 以下、「最低限知っておきたい遍路用語解説」を、行っていこうと思います。 
 ただし、用語の大半は“独自解釈”しておりますので、その点はご了承の程を。

遍路(へんろ)
 四国八十八ヶ所の寺を巡ること。そこから、遍路を行う人のことも「遍路」と呼ぶようになる。  その一方、「遍路とは修験者や僧侶の修行」という見方も根強く、寺院関係者ではない“一般的な遍路”の場合は「お遍路さん」や「お四国さん」という呼び方もされている。
 札所(ふだしょ)
 四国八十八ヶ所の「お寺」のこと。 
 以前にはお寺を参拝した際、その参拝の証として「木製のお札(ふだ)をお堂などに打ち付ける」 習慣があったことの名残で、今でも八十八ヶ所のお寺のことを“札所”と呼び続けている。 なお、現在では木札を用いることがなく「紙製の札」を各札所のお堂前に設置された納札箱へと入れるようになっている。
【関連用語】
・本堂(ほんどう)
  各札所にある本尊が安置してある場所のこと。
  なお、本尊とは「各札所で信仰の対象として祀っている仏や菩薩」。例えば1番札所の本尊は釈迦如来、88番札所の本尊は薬師如来と、各札所で異なることが多い。
・大師堂(だいしどう)
  各札所にある弘法大師・空海を祀った場所のこと。
  参拝の際には「本堂⇒大師堂」という順番で行う。


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四国遍路に必要な知識

 四国遍路とはこれまでにも述べましたが、改めて一言で言えば「弘法大師(空海)が修行の場とした四国に開いたとされる88の霊場を巡礼すること」であります。

 モチロン、“学術的”にも四国八十八ヶ所の寺に空海が関わったというのは無理なハナシでございますが、先ず、「遍路」においては「八十八ヶ所は全て“弘法大師空海の足跡の残る寺”である」と考え、そこから「四国八十八ヶ所は空海や各寺院の本尊へと“自身の願掛け”を行う場所である」と考えておく。
 このように「四国遍路とは宗教儀礼の一環である」との認識を持っておけば、四国の現地へ行っても恥をかくようなことにはならないでしょう。


 そのような「四国遍路に必要な知識」を大別すれば、一つには札所などで最低限守らねばならない「遍路としての作法」。これは言い換えれば、“遍路に関する理論面”でもありましょう。
 二つ目には、遍路をする上で役に立つ「実践的な知識」。 これは実際に遍路をする上で知っておくべきこと、例えば車や徒歩といった移動手段別の所要日数や費用、宿泊施設の種類。また、各札所へのアクセス方法や場所的な特徴なども、事前に知っておいて損はないでしょう。

 つまりは、遍路に関する“理論と実践”を事前に把握しておけば、四国現地に入ってもかなり優位であるわけです。


 こういった四国遍路に必要な知識をまとめたのが、当カテゴリ(ラベル)の「遍路初心者講座」。
 このカテゴリでは「ワタクシが必要と考える遍路知識の伝授」という、きわめて私的で恣意的な記述を行うことといたします。


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2012-10-12

“遍路初心者”の方へ

 これまで、主に一般的な「遍路経験者」や“擬似遍路行為”を行う「チャレンジャー」、そして、遍路を経験してはみたものの自身の体験を消化できずに苦しむ「はぐれ遍路」といった立場の方々への当ブログの読み方を示してきたのですが、実は個人的に最も恐れているのが「遍路に興味を持っている人」、あるいは「これから遍路へ行こうと情報収集している人」でしょうか。
 言うなれば、“遍路初心者”。

 既に・・・
 そういった遍路初心者の方々には当ブログはお役に立てないということを、微に入り細に入りこれまで述べてきた通りですがw 実はワタクシ自身が“心変わり”(?)したこともあり、「遍路初心者へ向けたガイダンス的なエントリ」も執筆しておこうかと思いますよ。

 ただし、その内容はドチラかと言えば“歩き遍路向き” であるでしょうし、ワタクシの経験上“偏った内容”にもなりましょう。
 それでも構わないというのであれば、次回以降の更新で新たなカテゴリ(当ブログでは「ラベル」)を設け、知識の伝授に努めたいとも考えております。


 そこで、今ワタクシから「これから遍路へ行こうと考えている人」に一つだけアドバイスを送るのであれば、徒歩や車といった移動手段を問わず、情報収集よりも先に

体力強化に力を入れるべき
ということです。

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“癒し遍路”や“哲学的遍路”に疑問を持つ方々へ

 遍路というものは移動方法の手段を問わず、日数、費用、体力的に厳しいものであることには変わりはない。とりわけ、その移動方法が「徒歩」であった場合、全ての移動方法の中でも過酷さは群を抜く。
 

 ところで、そんな過酷であるはずの「歩き遍路」が、おおよそ10年ほど前より“癒し”をキーワードに「楽しいもの」であるかのように喧伝され、やがて誤解されるようにもなった。
 その引き金となったのはいくつかの「出版物」。2000年頃までにお ける遍路情報の主役と言えば、間違いなく本や雑誌の類であった。
 苦しいはずの遍路が、多くの出版物では良い面(楽しい面)ばかり強調されるようになり、とりわけ戦後の左翼世代が遍路道に迷い込むようになってからは、彼らが愛したコトバ“癒し”や“自分探し” なる中途半端な哲学用語で遍路が“理論武装”されるようになり、遍路は本来的な暗い世捨て人的な意味から別の意味へと、解釈されるようにもなった。

 それを受けて2000年頃を境に、「ネット」が遍路情報の主役に躍り出る。
 そのネット情報では「如何に遍路は楽しいものであるかばかり」が好んで語られるようになり、それ以外の本音とも言える感想を述べる者は、短時間で圧力(?)がかけられ、いつの間にやら哲学的な意味をまとった“特定の遍路観”ばかりが喧伝されるようになった。

 しかしながら・・・  そういった“哲学的遍路観(?)”に対して反感を持つ方もおられるでしょう。言うなれば「遍路はそんな“綺麗事”では済まされない」として。
 とりわけ、そういった感想を持つ人は数々の犠牲や苦難を乗り越え一気に四国88ヶ所を歩いた「通し打ちを敢行した人」 、さらに、そこで自身の限界を超えて“あるレベルを突破した人”であると思われます。
 実はそんな遍路観に反発するような人にこそ、このブログは読んでいただきたいものだと思っているのです。


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